世界のどこでも八月の夜は長い。メヒコ南東部の山中の別の八月、老アントニオはゆっくりと両刃のマチェーテの刃を磨いでいる。カマドの火は、老アントニオが手に持っている鉛色した細長い鏡から、オレンジ色と青色の輝きを引き出している。ドニャ・フアニータはトルティージャをコマルから一枚、二枚と引き離している。私は部屋の隅に座り、煙草を喫いながら待っている。その夜、われわれは老アントニオと狩りに出る予定だった。
　われわれのためにトルティーリャとポソールを用意してほしいと、老アントニオはドニャ・フアニータに頼んだ。だから、彼は夜明け前まで山に留まるつもりでいると、私は考えた。ため息を何度もつきながら、ドニャ・フアニータはトウモロコシを粉に挽いた。そして、トウモロコシの練粉を平らに延ばし、出来たての大きなトルティーリャを山積みにした。火で舐め尽されたカマドでは、小さなポットのコーヒーが温めなおされた。
　マチェーテの両刃をヤスリで研磨するリズミカルな音、ドニャ・フアニータの作っているトルティーリャの匂いに誘われて、私はついウトウトとした。突然、老アントニオは立ち上がり、「じゃあ、行ってくる」と言った。
　「そう、じゃあね」とドニャ・フアニータが言った。彼女はバナナの葉っぱで大きなポソールの玉を包み、トルティーリャといっしょに、老アントニオの小さな雑嚢に入れた。コーヒーを古いプラスティック製のビンに注意深く注ぐと、そのビンをポソールとトルティーリャの脇に入れた。
　私はぱっちりと目を覚まし、立ち上がった。家の門の横木を通り過ぎたあと、私は老アントニオが彼の古い単発式猟銃を持っていないことに気づいた。
　「武器を忘れていますよ」と言った。
　「いや、忘れてはいない。今夜は単発式猟銃はいらないんだ」と、老アントニオは立ち止らず答えた。
　われわれは夜に向かって出発した。この「夜に向かって出発する」という表現が比喩的な意味で使われていることを私は知っている。しかし、この場合は、それ以上の意味を持っていた。老アントニオの小さな家にわれわれが居たとき、マチェーテを研ぎ、コーヒーを加熱し、トルティーリャを調理する儀式に招かれなかったかのように、夜は家の外で待機していた。小さな家の古ぼけた門は開いていたが、夜は室内に入ってこなかった。夜は入口の際までやってきていた。しかし、室内は夜のための場所ではなく、ほかものの場所であることを知っているかのように、夜は家の外側に留まった。まさに、われわれは、老アントニオの小屋を出て、夜に向かって出発したのである。
　かなり長い間、われわれは踏み分け道を歩いた。雨は止んだばかりで、ホタルは木の枝やツルに蛇のように光を巻きつけながら、また遊んでいた。とはいうものの、八月は水たまりや泥土をあちこちに点在させていた。われわれは、膝まで泥にまみれながら歩かなくてすむ道が始まる十字路をすぐには発見できなかった。そこで、われわれは、いつもは通ることのない、あまり泥が多くない古い森の小道の迂回路をたどった。その辺りには、高木林が広がっていた。木々は大きく葉も繁っていたため、われわれは、ひとつの夜から抜け出したものの、また別の一層暗い夜、夜のなかの夜に入り込んだようだった。
　われわれが何を探しているのか。老アントニオが単発式猟銃を村に置いてきているのに、いったい何を狩ろうとしているのか。私は何も知らなかった。しかし、老アントニオと出かけると、最初に不思議なこと（太陽が山の肩にひっかかり始めると、夜明け前であることがわかるように、行程が終了するとき、やっとその謎が解明される）が起きるのは、けっして初めてではなかった。だから、私は何も言わずに、黙って老アントニオのあとをついていった。
　森の小道が終わったのは、真夜中過ぎだったにちがいない。やがて、（人や暴風によって作られた傷跡を閉じた状態にしておく）木々の高さが増し、その小道はなくなった。しかし、われわれは歩き続けた。時に応じて、とくにツルがわれわれの前に壁のように塞がっていると、老アントニオはマチェーテで道を切り開いた。
　私はずっと自分の探照灯を使っていた。しかし、老アントニオはときおり自分の探照灯をともし、ほんの一瞬だが何かを探すかのように、光の束をいろんな場所に向けていた。突然、老アントニオは立ち止まったかと思うと、長い時間、彼のランプをじっと地面に向けた。私もその方向を照らしたが、何も特別のものは見えなかった。風で飛び散った数本の枝、ツル、草、小さな植物、地面から節やこぶを覗かせている根が見えただけである。
　「ここだ」と老アントニオはつぶやき、数秒前に照らした場所から十メートルほど離れた所にある一本の木の下で、木の方向をむいて座り込んだ。
　われわれは、何かを待ちながら、その場所にじっと座っていた。老アントニオを見ると、彼は巻き煙草を作りはじめた。それで、私は三つのことを悟った。ひとつは、われわれは動物を待っていないことである（煙草の匂いは動物を遠ざける）。もうひとつは煙草を喫えることである。三つめは老アントニオがお話を始めることである。私はパイプと煙草をとりだし、老アントニオの巻き煙草に火をつけた。私は自分のパイプに火をつけ、大きく煙を吐き出した。それで蚊を追い払い、老アントニオがお話を持ってくるのを手伝おうとした。そのお話は、私が何度か海に話し、これから皆さんに話すものである。

　夜のお話

　ものごとを知らない人は言う。夜には数多くの大きな危険が隠されている。夜は泥棒の隠れる洞窟、影と恐怖の潜む場所である。ものごとを知らない人はこんなふうに言う。しかし、おまえは知らなければならない。もはや、悪と邪悪な存在は、夜の黒い帳の背後に隠れて歩き回ったり、巣に潜んだりしていない。そんなことはしない。悪と邪悪な存在は、白昼堂々と歩き回り、咎めだてされず、歩いている。悪と邪悪な存在は、権力という大きな宮殿に住んでいる。工場や銀行、大商店を所有する。上院議員や下院議員の服を着ている。この大地で悲しい思いをしている複数の共和国で大統領にまでなっている。悪と邪悪な存在は、何千もの色の下に灰色の悪夢を隠している。彼ら自身が命令したモードを流行らせる。

　−老アントニオは輪の形をした煙草の煙を吐き出しながら言った。

　そのとおりだ。もはや、悪と邪悪な存在は隠れようとしない。今や、表に現われ、政府まで作っている。しかし、ずっとそういう状態だったわけではない。以前には、悪と邪悪な存在が昼に出歩かない時代があった。しかも、誰も昼に出歩かなかった。というのは、まだ昼は作られていなかったからである。その時はすべてが夜と水の時代だった。あらゆるものが夜のなかにいた。何も誰も夜から出ることはなかった。

　最長老たちは語っている。
万物は夜のなかに留まり、ある岸から別の岸へと夜を歩くだけだった。しかし、向こう側に到達することはなかった。向こう側に到達することを望まなかったからではない。まだ、向こう側が存在していなかった。大きな夜だけが沈黙のなかに横たわっていた。
　さらに、最長老たちは語っている。
もっとも偉大な神々、世界を誕生させた神々、最初の神々が最初に集まったのは夜だった。ある人が言うには、神々が最初に導きだした合意は昼を創ることだった。昼ができ、夜にその後に続けば、とてもすてきである。神々はそう考えた。しかし、実際はそうではなかった。違っている。最初の神々が導きだした合意とは、夜から悪と邪悪な存在を追放することだった。
　最長老たちは語っている。
夜という家から悪と邪悪な存在を追放する。それを決定するため、最初の神々は多くの重要な理由を思いついた。最長老たちが言うには、あらゆる戦いの勝者であるテペウは、次のようにはっきりと語った。神々が誕生させるべき夜や世界は、悪と邪悪な存在が住むための場所ではない。だから、いくら長い時間がかかろうとも、万物から悪と邪悪な存在を除去するため、戦わねばならない。
　もっとも偉大な物知りの鳥、ケツァル鳥の羽毛をまとい、長い身体をしたグクマッツは言った。夜はよい家を作るためのものだ。しかし、悪と邪悪な存在が邪魔をしている。最初の七つの神々、もっとも偉大な神々、ひとつでふたつの神格をもつ七つの神々は、おおいに語った。ついに神々は合意を導き出した。それは悪と邪悪な存在を夜から追放し、どんな記憶も届かないはるか彼方に放置することだった。もっとも偉大な神々、世界を誕生させた神々、いちばん最初の神々はこの合意に達した。その最初の合意が導き出されたとき、世界にまだ昼も何もなく、すべてが夜で、黒い水が音もたてず横たわっていた。
　最長老たちは語っている。
共同体はそれぞれの過去の歴史を長老たちのなかに書き記している。トウモロコシの男と女は、後になって喋る箱のように、万物がどのように、何のために創られたかというお話を村の最長老たちのなかに保管している。
　最初の合意の後に最初の問題が発生したと、最長老たちは語っている。悪と邪悪な存在を追放する場所がなかったのである。時間がなかったこの時代、すべが夜と水だった。まだ何も出来上がっておらず、何も創られていなかった。すべてのものが自分の時間を待っていた。そこで、最初の神々は再び集まった。まず、事物と場所を創るべきである。そうすれば、悪と悪しき存在を追放する場所を確保できるだろうと、神々は理解した。かくして、万物が造られ、夜から昼が誕生した。同じようにして、トウモロコシの女と男、鳥や動物、魚が創られた。大地、大洋と天空が動きはじめ、世界は歩みはじめた。誕生したばかりだが、世界はゆっくりと歩みだした。その長い行程が始まるとともに担うことになる積荷があまりにも多かった。
　最初の神々は何となく疲れてしまった。彼らが誕生させたもの、つまり世界が多かったからである。その世界には、もともと、お互いに異なる別の世界がたくさんあった。とはいうものの、それらは世界にある多様な世界であった。もっとも偉大な神々はとても消耗していた。そのため、悪と悪しき存在を夜から追放し、どんな記憶も思い出も届かないはるか彼方に放置するという合意のことを忘れていた。最初の神々は忘れていたことを思い出した。そして、自分たちの偉大な力で悪と悪しき存在を追放するため、悪と悪しき存在を探した。神々は、夜の間ずっと探したが、見つけられなかった。夜のあらゆる場所を個別に点検して回ったが、悪と悪しき存在はどこにもいなかった。
　最長老たちは語っている。
悪と悪しき存在は、あらゆるものが初めて誕生している混乱に付け込んだのである。悪と悪しき存在は、昼に逃れるため、隙間を潜り抜け、夜から逃亡した。そして、統治者の振りをして、昼に隠れた。時間が歩んだ長い時間の経過とともに、悪と悪しき存在は、自らが権力や政府であることをやめずなかった。同じものでありながら、ほかのものに見せるように衣装を変えてきた。
　さて、今、夜という家は、縁や出入口、窓まで備えるようになった。夜は独自の生命を生み出し、夜の暗いスカートのなかにぶら下がっている光を造りだした。たしかに、夜は自分の影を持っている。しかし、影の影たち、山のなかで夜に暮らし、夜を守っている男と女は、独自のきらめきを持ち、独自の光を放っている。
　最長老たちは語っている。
彼らの話では、今も、最初の神々は悪と悪しき存在を探しながら、夜を撤して歩き回っている。そして、何かの石を積み上げ、気怠そうな雲を集め、月をくすぐり、星をかき集めている。そのような神々の姿をしばしば目撃できるという。それは、悪と悪しき存在がその辺りに隠れていないかを確認するためである。
　また、最長老たちは語っている。
最初の神々は、探すことに疲れると集まった。そして、数多くの星を山の黒いカマドの上に集めた。青色と真珠のような色の光にあわせ、神々は踊りあかし、歌いあかした。神々が奏でる骨と木と光でできたマリンバは、メヒコ南東部の山中に生まれる夜を充たした。悪と悪しき存在は踊りや歌が大嫌いである。この大地に楽しいことが組織されると、悪と悪しき存在は遠くに逃げだす。そのことを知らせるため、神々は踊りあかし、歌いあかす。
　そして、最長老たちは話している。
最初の神々は男と女の集団を選んだ。悪と悪しき存在を世界中で探し、発見し、はるか彼方に追いやるためだった。
　また、最長老たちは話している。
誰もそのことを知らないようにするため、神々はこの男と女の偉大さを小さな身体に隠した。そして、彼らの身体を褐色に塗った。夜に恐怖感を持たずに出歩き、昼に大地の一部と同化するためだった。夜は、最初の神々の母であり、すべての始まりであり、家と場所である。そのことを忘れないようにするため、神々は彼らの顔を黒く覆った。彼らが顔を隠した存在であっても、昼のあいだ、夜のかけらを記憶に止め、携帯するためだった。
　こんなことを最長老たちは話している。

　−老アントニオはこう言うと、新しい巻き煙草を作った。そして火をつけると、煙を吐き出し、また言葉をかきたてた。

　しばしばお話に登場するこの男と女は、「真の男と女」と呼ばれる。最初の神々とともに、彼らは夜に潜んでいる悪と悪しき存在を探しはじめた。時には、悪と悪しき存在を探し、発見するため、昼にも、出かけねばならないだろう。昼から始めて、夜に入るまで、彼らはよりよい門、夜明け前を求めるだろう。

　老アントニオはじっと黙っている。天空では、夜明け前が疲れを知らない太陽の一行に席を譲りはじめている。その最後のため息とともに、最後の暗がりも溶けていく。あの丘の肩に夜明け前の爪痕を残しながら、太陽はいちばん高い丘へ昇っていく。
　老アントニオは立ち上がって足を伸ばすと、マチェーテの両刃を点検しながら言った。
　「じゃあ、出発しよう」
　「出発ですか？」と私は尋ねた。
　「狩猟のため、何かのため、何か動物を待ち伏せしていたのでは？」
　老アントニオは立ち止まらずに答えた。
　「いや、そうではない。動物を狩っていたのではない。悪と邪悪な存在が現われないかと、われわれは徹夜で警戒していたのだ」
　われわれは帰りの道を急いだ。岡の中腹にある放牧場を通り過ぎる頃には、昼の光は渓谷全体を包み込み、雨の最後の一滴も終わっていた。そして、何羽もの雄鶏は、歌というより警戒の声を出していた。
　老アントニオはしばらく立ち止まり、西のはるか遠方を指差して言った
　「今は悪と邪悪な存在が統治している時間帯だ。もう連中は隠れようとしない。連中は白昼堂々と歩き、匂いを発し、触るものすべてを腐らす。しかし、夜になると、状況は違う。夜は……夜はわれわれのものである」
　老アントニオは黙っていた。われわれは小屋までの最後の五キロほどを何も喋らずに歩いて帰った。われわれが家に着いたとき、ドニャ・フアニータも背中に薪の束を担いで帰ってきたところだった。薪の束を下ろしながら、ドニャ・フアニータは尋ねた。
　「じゃあ、何もでなかったのね？」
　「何もでなかった」と答えると、老アントニオはドニャ・フアニータがメカパル［額に紐をあてて担ぐ背負子］を頭からはずし、小屋の壁に薪を積み上げるのを手伝った。
　「ずっと夜を撤してしなければならない」と言うと、ドニャ・フアニータは火にまだオレンジ色をしたオキを集めて、火にくべた。
　「そうだ。だから、ずっと夜を撤してしなければならない」
　こう言うと、老アントニオはマチェーテの両刃をヤスリで再び磨ぎはじめた。
　朝の光は老アントニオの小屋には入らず、外にうずくまっていた。小屋の内側で、老アントニオが悪と邪悪な存在を徹夜して探していたことを知っているかのようだった。そして、ドニャ・フアニータが維持しているカマドで、新しい別の日、別の朝が形づくられるのを恐れているかのようだった。

　　出典−La Jornada,1999/8/14