マチェーテを研ぎながら、老アントニオは小屋の入口で煙草を喫っていた。コオロギの鳴き声と疲労に包まれ、私は彼の横でウトウトしていた。老アントニオが細長い紫煙を立ち上がらせていたときから、十年前であれ、十年後であれ、空は夜の海のようだった。空は大きすぎた。どこで始まり、どこで終わるのか、わからなかった。
　月は数分前に沈んだ。明るい雲が山の頂をくっきりと照らし出した。月の光で銀メッキを施された山の頂は、媚びを振りまくためのバルコニー、みごとな飛込みをするための踏み板台、新しい飛行機便の滑走路のようだった。最後の一筋の黄金色の光は、それを待ちわびていた渓谷にむかってウィンクを投げ掛けた。その後、黄金色から銀色へと、そして真珠のような白色へ変わった。つぎはぎだらけの帆を膨らませ、光は上に向かって飛び出した。夜が航海を始めた。下界では、静けさとノスタルジーが待ち受けていた。
　一九七五年、一九八五年、一九九五年の十二月。海はいつも東に広がっていた。雨は降っていない。寒さで、衣服だけでなく、しだいに息苦しくなる浅い眠りに潜む不安にみちた夢までもが、濡れていた。私が目覚めたのを横目で確認すると、老アントニオは尋ねた。
　「何の夢を見ていたのだね？」
　「いいえ、何にも」と返事し、弾薬帯に挟んだパイプと煙草を探した。
　「そりゃ、いかん。夢を見ながら、人は夢を見て、己れを知るの。夢を見ながら、理解するのだ」
　こう言った後、老アントニオは再び自分のマチェーテの薄刃をヤスリでゆっくりと研ぎだした。私はパイプに火をつけながら尋ねた。
　「ダメって？どうしてですか？」
　老アントニオは刃を研ぐのをやめ、刃の具合を確かめると、マチェーテを脇に置いた。手と唇を使って煙草を巻くと、お話を始めた。

　夢のお話

　「おまえにこれからする話は、誰かから聞いたものではない。まあ、たしかに、わしの爺さんが話してくれた。だが、爺さんはわしにこう言った。夢を見なければ、この話は理解できないと。だから、わしがおまえに語るのは、爺さんがわしに語ってくれた話ではない。わしが夢見た話である」
　老アントニオは足を伸ばすと、疲れた膝をブラブラさせた。煙草の煙を吐き出した。その煙によって、彼の脚に落ちた青味がかった葉に届いていた月の光が遮られた。そして、話は続いた……。

　偉大な先祖の顔に刻まれている一本一本の皺に、われわれの神々は潜み、生きている。それはわれわれの時代まで続く悠久の時間である。その時間とともに、われわれの先祖の理性は歩んできた。もっとも昔の先祖たちのなかで、偉大な神々が話し、われわれはそれを聞いていた。雲が大地に横たわり、山々の手でつかまれる。それと同時に、男や女と遊ぶために、最初の神々は大地に降りたった。そして、彼らに真実のことを教えた。最初の神々はほとんど姿を現わさず、夜や雲の相貌となって現われるだけだ。夢とは、われわれがよい存在になることを夢見ることだった。
　夢を通じて、最初の神々は、われわれに話しかけ、教えた。夢を見られない人間は、大いなる孤独感を抱き、自分の無知を恐れのなかに隠した。最初の神々はトウモロコシの男と女に夢見ることを教えた。それは、話すことができ、知ることができ、己れを知ることができるようするためである。そして、トウモロコシの男と女が人生をともに歩めるようにナウァル［人と共通の魂をもつといわれる守護動物］を授けた。
　真の男と女のナウァルは、ジャガー、鷲、コヨーテである。ジャガーは戦うため、鷲は夢を抱くため、コヨーテは考えをめぐらし権力者の欺瞞に騙されないためである。
　最初の神々、世界を形づくった神々の世界においては、あらゆるものが夢だった。われわれが生き死にする大地は、夢を映す大きな鏡である。そこに神々は住んでいる。偉大な神々はそこでいっしょに住んでいる。誰もが同じように生きている。誰かが上で、誰かが下ということはない。政府が行なう不正が、世界を解体し、一部の少数者を上に、ほかの大多数を下に置いている元凶である。もともと、世界はそうではなかった。真の世界、最初の神々、世界を誕生させた神々の夢を写す偉大な鏡は、とても巨大で、誰もが同じように入れた。少数者を上に鎮座させ、大多数を下に押し込めるため、小さくなった今の世界とはまったく違っていた。今の世界は完璧ではない。最初の神々が住んでいる夢の世界を反映するよい鏡ではない。
　神々はトウモロコシの人々に尊厳という鏡を贈った。その鏡では、人間はすべて対等に映る。対等でないなら、反乱を起こすようになっている。こうして、最初の先祖たちの反乱が始まった。今、彼らはもう死んでいる。しかし、それによって、われわれが生きることができる。
　尊厳という鏡は、暗闇をまき散らす悪魔を打ち負かすのに役立つ。暗闇の支配者は、鏡に映ると形を失う。尊厳という鏡の前では、世界を不平等にする暗闇の支配者は何もないかのように影も形もなくなる。
　神々は四つの基点をつけた。それは世界が横になるためである。神々が疲れたからではない。男と女がともに歩けるように、誰もが入れるように、そして人の上に人がいないようにするためである。飛ぶだけでなく、大地の上にいることができるように、神々は二つの基点をつけた。世界に意味をもたらし、真の男と女に任務を与えるのは、七つの点である。つまり、前と後、右と左、上と下である。そして七番目の点は、われわれが夢を見る道である。トウモロコシの男と女、真の男と女のたどる命運である。
　新しい男と女が夢で生きられるように、神々は女の胸に月を与えた。その夢から、歴史と記憶は生まれる。夢なしでは、忘却と死が巣くってしまう。われわれの偉大なる母である大地は二つの乳房をもっている。それは、夢を見ることを学ぼうとする男と女のためである。人は夢を見ることを覚えながら、成長することや尊厳をもつことを学び、戦うことを学ぶ。だから、真の男と女は「夢を見よう」と言い、「戦おう」と言う。

　老アントニオは黙った。彼が黙ったのは、私が寝からである。私が夢を見ている夢、私がわかっている夢、そして私がわかっている夢を私は見ている……
　頭上では、月の胸が天の川に乳を与えていた。夜明け前は女王だった。すべてが実行されて、夢を見ながら、戦うだけとなっている。

　出典−La Jornada,1996/1/2

　【野村美菜子＝訳】