ポニアトウスカさんの神戸での講演　（2000年５月31日）

　�U　『地震−最悪の死』　　　　　　　　　　　　神戸学生青年センター
　

　以前、人々は自分の手で建物を作っていました。家は大地の一部として風景のなかに溶け込んでいました。家は建てられた場所から遊離することはなく、山、湖、ヤシの木、泥などに溶け込んでいました。祖父母、そして祖父母の祖父母たちは、大地にある素材を使って家を建てていました。素材としては、ワラや竜舌欄の葉、そして粘土を混ぜた土を天火で乾燥させてレンガにした日干しレンガ、植物の繊維や馬のたてがみ、さらには竹などがありました。竹は小枝を編んだ枠にワラを混ぜた土で覆った塀や土壁を造るために使われました。自然が材料を提供していたのです。砂漠では柱サボテンやウチワサボテンで作られた塀があります。生きて、息をする塀です。森林のある山地では木材があります。岩だらけの土地では石があります。海岸部ではヤシの木があります。それを女性の三つ編みのように編み込み、屋根を造ります。油ヤシの葉で編まれた屋根は、軽くて調和のとれた丸い天井となり、いつでも作り替えられる心地のよい円形のカバーとなります。
　私たちメキシコ人はずっと昔から振動する大地の上で暮らしてきました。摩天楼に代表される近代建築は、私たちの先祖がしてきたように自然に従属するのではなく、自然に挑戦しているのです。私の小説、『わが主とお別れするまで』の主人公ヘスーサ・プランカラスは、1910年にマデロがメキシコ市にやってきたとき、大地が揺れた様子を語っています。ヘスーサは大地のなかで起きているすべてを知っていました。彼女は大地のマグマを暗い色をした巨大な動物、たぶん死をもたらす毒蛇と混同していたのだと思います。近年に登場したプレート理論によると、大地は巨大なプレートによって構成され、その上を大陸が移動していると言われています。コロンビアの海岸部から始まり、メキシコ西部のコリマ州まで達しているココス・プレートは、メキシコ全体の面積に匹敵する 200万平方キロもあり、岩盤は 70〜100キロメートルもの厚さがあります。このプレートは私たちの大陸（北米大陸）に忍び込み、蓄積されたエネルギーによって大陸のなかに侵入しようとしています。小規模な地震によってそのエネルギーは少しずつ発散されているのです。プレートの断裂が巨大な地震を引き起こしているのです。科学者の予測では、将来、1985年の地震よりはるかに巨大な地震が私たちを待っているそうです。
　日本や米国などの国では、地震や津波に対応できる建造物の強度や社会的行動の在り方が予測されています。台風の時に体験するように、住民全体が避難させられたこともあります。サンフランシスコでは、ずいぶん前から、住民に対して将来の地震を見越して住宅の耐震性を強くするようにという指令が出されています。メキシコの場合には、人間の側の犯した過ちが指摘されています。地震の規模はメキシコと同じ程度であったのに、被害はメキシコよりずいぶん少なかったものがあります。メキシコでは、こうした過ちは体制の腐敗のせいであるという証拠や疑念が多くの住民のなかに存在しています。そして社会的にも明白な事実となっています。
　建築基準法違反、粗悪な建材、多くの役人や請け負い業者、建築技師に蔓延している不誠実さ、隠蔽工作や許可を得るための賄賂、大小さまざまな規模の暴利の貪り、天然資源の歯止めのきかない開発、詐欺などがあります。たとえば、コンクリートの代わりに砂が使われていたために、建物は文字どおり砂の楼閣となっています。こうしたものすべてがいわゆる「黒い仕事」のいたるところに潜んでいたのです。それらが1985年の大破局によって表面に表れたのです。メキシコでは、人間の犯した過ちは犯罪という色彩が強くなっています。なぜなら、私たちメキシコ人は、何よりも、見捨てられ、孤児のように無防備で、孤立無援であり、仕事もないか半失業の状態におかれているからです。忍耐する能力だけは限りなくあり、とくに権威者や金という権力には屈伏してきたのです。政府の役所を少し覗いてみれば、税金の支払という市民の義務を果たそうとする人たちの長い列や、彼らが受けている取り扱いの様子を知ることができます。安い給料しか支払われていない官僚制度の非効率を目のあたりにできるでしょう。権勢を独占してきた体制は、貧しい人たちの権利を制限するのだけでなく、否定しているのです。
　メキシコ大地震では、１万５千人以上が亡くなり、４万人以上が負傷しました。
崩壊してはいけないはずの病院が瓦礫になったのです。ラテンアメリカで最大の病院だったセントロ・メディコ病院は消滅し、ゼネラル病院、フアレス病院、ロンドレス診療所も同じ運命をたどりました。多数の学生がいた公立の学校や高校も消滅しました。通産省、検察庁、労働監督署など政府関係機関の入っている建物が 400棟以上も崩壊しました。トラテロルコの大衆居住区にあった「ヌエボ・レオン」棟や1957年の地震ですでに被害を受けていたベニート・フアレス団地も崩れてしまいした。産婦人科病棟は瓦礫の下に埋もれ消滅しまい、多くの母が出産の最中に死んでしまいました。子宮の暗やみに慣れ親しみ、胎盤から栄養を吸収し続ける新生児なら救出できたかもしれないのですが。全部で5728棟の建築物が被害を受けました。15万以上の住民が家庭を失い、10月、11月、12月、そして１月という寒い月、さらには天候不順のなかを８ヵ月にわったて、路上に仮設のテントを設営して暮らすことになったのです。家を失った住民に対して、政府は大衆的な住宅をまったく提供できませんでした。
　地震直後の３日間、この大災害に対する責任をとったのは当のメキシコ人自身、その辺りにいる普通の人たちでした。政府の対応がきわめて緩慢であったため、住民自身が乗り出したのです。仕事に出掛けていた人たち、周辺部の低所得者居住地区からやってきた若者たちが救護隊として活動したのです。地震直後から、彼らが遺体を収容し、人々を救出したのです。ツルハシや懐中電灯、毛布やお湯を持ち寄り、瓦礫の下から叫び声や泣き声が聞こえると、自分の生命も顧みず、トンネルを掘り、瓦礫のなかに身体を潜り込ませ、人々を救出していったのです。緊急事態に対応する最初の行動は、政府ではなく、人々の手で行なわれたのです。ボーイ・スカウトは交通整理をし、救世軍はパンやコーヒーを配り、教会が発揮した組織の動員能力は驚嘆すべきものでした。大学生や民衆運動の指導者は、救出活動や飲料水の配布を始め、親族の所在を知ろうと躍起になっている家族に対して情報の提供を行ないはじめました。
　政府は、正常への復帰というスローガンを掲げ、早急に地面を整地することを決定したのです。サンドウィッチのようにペシャンコになった建物の瓦礫の上に急いで公園を作りあげようとしたのです。建造物が出来の悪いものであったことを示している鉄骨やコンクリート片はすべて片付けられました。ブルトーザー、クレーン車、ダンブカーなどが埃にまみれた人間の遺体をゴミ捨て場まで運んでいきました。都市はこれまでになかった速度で整地され、撤去された瓦礫やゴミの量は35万トンにも達しました。そのゴミを満載トラックが2500回も首都の周辺にあるゴミ捨て場に向かったのです。
　圧迫死や窒息死ほど酷い死に方はありません。しかし、何千人ものメキシコ人が瓦礫のなかで死んでいったのです。ゴミや石にはさまれ、遺体はひどく傷つけられていました。救急隊員のマルコ・アントニオ・エリサルデの情報によると、地震から４年後に、ロレンソ・ボトゥリニ通りから数体の死体が発見されたことがあるそうです。
　低所得者居住区に住んでいるメキシコ人はつねに肉弾となってきました。彼らは最低限の保護すらもつことができないのです。たとえば、アロンソ・ミシュテコは、生れ故郷のゲレロ州からメキシコ市へ働きに来ていました。彼の仕事は先住民教育総局のもとでミシュテカ語の通訳をするというものでした。彼は次のような体験を語ってくれました。

　彼は自分の頭を書類カバンで守りながら、何メートルかはわかりませんが、墜落したのです。まったくの暗やみのなか、彼は土くれの下敷きとなりました。身体を動かす隙間はありませんでしたが、小さな缶を見つけ、床に打ちつけて音を鳴らしはじめました。腕だけを動かせたからです。「救けてくれ！ここにいる。どうか、ここから引きづり出してくれ」と15分以上は叫んだということです。返答はなかったものの、やがて、30メートルぐらい先に陽の光が差し込んでいる場所が見えたのです。彼は「ここから出れば助かるにちがいない」と考えました。こうして、彼の言葉によれば、アロンソ・ミシュテコは自分を救出する作業を独力で開始したのです。
　「こんなふうに、私は頭を前にして、身体全体を引きずり、あちこちに捕まりながら、狭い裂目にむかって前進したのです。光の差し込む方向にむかって全身を運んだのです。こんな小さな穴しかなくて、手しか入らない場所もありました。その場合、あっちやこっちへと身体の向きを変えました。私がまだ生きていることを確かめようと、私は自分の身体を見つめました。まだ大丈夫であることがわかると、肩や腕、頭を使って、戦いを再開したのです。壁に向かって頭突きを何度も繰り返しました。私の頭はずいぶん頑強で、骨も鉄が入っているぐらい硬いのです。私は身体をいわば釘のようにして、小さな裂目をこじ開け、それがある程度大きくなると、残りの身体を押し込んでいったのです。
　私の身体全体を使って瓦礫のなかを30メートルも掘り進んだのです。頭を前にして、自分の身体全体を引きずり、あちこちに捕まりながら、陽の光の差し込むところまで到達したのです。私の頭には傷ひとつありませんでした。そして、やっと言葉を話せるようになったのです。鄙猥な言い方をしてもかまいませんか。いつもはそんな言い方はしないのですが、『このクソッたれ、ひどい目に遇った』とつい言ってしまったのです。
　私の住む８階の建物がペシャンコになり１階建てになっているのが目に入りました」

　アロンソ・ミシュテコはインディオです。母はナウァ、父はミシュテコで、ふたつの先住民文化によって彼の身体は作られているのです。大地の下から独力で脱出して、人間として生き返っただけではありません。仲間たちを救出するために、彼は元の場所に引き返していきました。
　「私たち第３級の市民はいつも蚊帳の外に置かれてきました。私のような人間は第３級の市民なのです。９月19・20日は、そうした人々がいちばん甚大な被害をこうむることになったのです。もっとも貧しい人々、困窮生活をしている人たちが最大の被害者となったのです」
　私たちにこう言った後、彼は次のように付け加えました。
　「さらに私が言いたいのは、たくさんの書類が必要なので、人々はうんざりしてしまっているということです。あらゆるタイプの書類に書き込み、ここと、あそこ、さらにこちらにもサインをしなければなりません。次から次へと書類を作成しなければなりませんでした。ところが今や、すべての書類が風によって飛散してしまったのです。地震によって突風が巻き起こったのです」

　ミシュテコの言っていることは当然といえるでしょう。貧しい人は二重の意味で犠牲者となったのです。奇妙と思われるかもしれませんが、有名なオペラ歌手プラシッド・ドミンゴの母親、ペピータ・エンビルはトラテロルコの大衆居住団地に住んでいました。彼女はプラシッド・ドミンゴがクレーン車をつれてくるまで何日待ったのでしょう？プラシッドは、頭にヘルメットをかぶり、手にツルハシをもち、３日間伸ばしたままのヒゲ面でテレビの画面に現われました。そして、「政府はなにひとつ対応してくれない。すべての救急隊員は素手で作業しているのに」と言い放ったのです。
　女性縫製労働者がひしめき合うように働いていた秘密の作業場では、救出作業すら行わなかったことがはっきりとしていました。無事に救出できたはずの 500名以上の女性が亡くなりました。その理由は？彼女たちが女性だったからです。彼女たちは社会保険を持たないまま、秘密の作業場で働いていたのです。彼女たちの生命は雇い主の意向に左右されていたのです。雇い主は彼女たちを見捨てたのです。
　トラテロルコ地区では、グロリア・ゲレロはアレハンドラという５歳半の娘を失いました。彼女の娘は「ヌエボ・レオン」棟の小さな家で圧死したのです。グロリアは憤慨した近所の住民と一緒になって、建物は地震のかなり前から構造的損傷があったことを告発することにしました。専門調査を行なった工学士ペレス・ペレイラは心底ぞっとする事態を発見したのです。ヌエボ・レオン棟は１メートル以上も傾き、基盤部は水浸しとなり、直径５センチメートルの基礎杭は錆びて役に立たない状態になっていました。建物の柱といえば、隅の部分だけ１本の細い鉄筋が入っている状態で、コンクリートの柱には木の皮が詰められていたのです。地下は完全に水浸しになっていたのです。自分の孫娘や娘、妹を見つけだそうとメキシコ西部のマサトラン市からきたドニャ・コンスエロ・ロモさんは、１ヵ月半後になって、水中から孫娘の遺体の一部が発見されたことを語ってくれました。約40年ほど前に、「合理的設計会社(DIRAC)」によって設計された時点から、ヌエボ・レオン棟だけでなく、ノノアルコ・トラテロルコ集合団地地区にある建物は傾き始め危険な状態となっていたのです。
　地震による建造物の崩壊は、私たちの社会にある腐敗の深刻さを悲劇的な形で証明したのです。地震学者を充実させ、警戒体制を整備し、学校や病院の避難訓練を行なうだけでは不十分です。それ以外にも、工事の着工前に製作者たちの良識がどのように働いているかを確かめるため、政府のオフィスや設計建築事務所に感情探知機を設置しておいたほうがよかったのではないでしょうか？彼らの気持ちが建物に居住する人たちの運命からどの程度乖離しているかに自分で気づくことのできる感情探知機を発明したほうがよかったのではないでしょうか？国際的に有名な賞を受賞する時の技師の体温の変化を示すひや汗感知体温計はないのでしょうか？私たちの国では、いったい誰が、建築物の質、そして官僚や専門家の倫理面での質を検査しているのでしょうか？私たちの国には、品質、資材、食品、職業倫理を管理するシステムが不在であると、ギジェルモ・アロ氏はかつて指摘したことがあります。監察官がいないので、お互いに隠蔽し合うマフィアだけを気にすればよいのであり、彼らは自分たちの共通利害だけを防衛しているのでしょうか？メキシコの政治システムの基盤は、水浸しになっていないと言えるのでしょうか？今現在も、何千トンもの瓦礫の下で、死者たちは、自分たちの死は一言の説明を行なうにも値しないのかと、告発し、要求し、発言しているのです。
　ずいぶん昔のことですが、アナウァク大学の建設の最中に、トルーカに向かう街道と接続させるための橋が作られました。その橋は崩壊し、百人もの労働者が死にました（またもや肉弾です）。責任者は不在でした。少なくとも責任者を発見できなかったのです。地震の力が建築強度を凌いだというのでしょうか？それとも人々が信じているとおり、建築物は手抜き工事のため崩壊したのでしょうか？　地震は崩壊してはならない病院、政府の建物に選択的に被害をもたらしたのです。つまり、最初から手抜き工事があったというのでしょうか？メキシコでは、ひとりの大臣、有力な建築技師、地震学博士が倒れるべき時に、国のいくつもの省庁が崩壊したのです。
　工学士ラウル・ペレス・ペレイラ氏はテウァンテペック通り12番地に住んでいた家族を失いました。彼によれば、建物に防御線、緩衝帯や柔軟性がない場合、地震の衝撃が増大し、建物は崩壊するそうです。コンクリート、コンクリート製支柱、円形土台や鉄筋のない建物は、背骨という防御体制のない人体のようなものです。風邪を引いても、身体が健康であれば抵抗できますが、そうでないと、風邪で死んでしまうこともあるのです。
　ペレス・ペレイラ氏は次のように自問しています。
　「その建物で125名の死者が出たことによって、工事関係者は３年半の禁固刑という判決を受けました。しかし、５年以下の刑であれば、保釈金を払えば自由になることができます。連中は100万ペソの保釈金を支払い、監獄には入りませんでした。この保釈金から支払われる被害者への割り戻金は５万ペソです。この５万ペソを125名の死者で分配すれば、一人あたりわずか400ペソにしかなりません。メキシコにおいて免責の値段はあまりにも安いのです」
　1985年９月19日の地震というきわめて深刻な悲劇の時、メキシコの市民はインドのアウト・カーストの不可触賎民のように感じたのです。生活の基盤がガラガラと崩れ落ちたのにもかかかわらず、男や女はすぐさま行動に移ったのです。他者との新しいコミュニケーションの方法を探り、障害や先入観を打ち壊していったのです。それはきわめて例外的な出来事でした。やがて時間が経つにつれて、以前の行動様式に戻って行き、体制的秩序が復活していったものの、その時の行動自体はきわめて例外的なものだったのです。　「地震に対する最初の決定的な対応はモラル面のものでした。必要に駆られた強制的なものとして、生き延び生活を続けるという本能が細分化し、人々を救出しよう、自然の暴力を無力なものにするという欲望に駆られた何万もの行動となっていったのです」
　「９月19日、メキシコ市に関する伝統的な見方が粉々に砕かれたのです。人々は自分自身に問いかけました。『私たちは将来どうなるのだろう？私たちの家の安全性について誰を信頼したらよいのだろう？排水システム、電気・ガス・水道の供給網、上水道のシステムの現状はどのようなのだろう？』」
　カルロス・モンシバイスは次のような結論に到達しています。
　「９月19日、ボランティア（その大多数は若者です）がメキシコ市のあらゆる場所に出掛けて、運搬体制を組織し、崩壊した病院や建物の周りでは民衆の支援グループを作り上げ、手に血だらけになるのもいとわず、積極的に救出作業に参加したのです。彼らは人間として心の奥底から理解し合う方法を教えてくれたのです。その時まで彼らも知らなかった市民としての役割、政治的な役割を取り戻したのです。　彼らボランティアは、警官や交通巡査、救急隊員、市評議員、医者や看護婦、議員や共同体の指導者の役割を担ったのです。これゆえ、19日の木曜日のこれらの英雄的な行為は、もっぱら連帯という形容詞を与えられるだけで、そうした行為のもつ本当の意味が真剣に問われることはなかったのです。19日、犠牲者たちに応えてメキシコ市はその歴史のなかで高貴ともいえる力の変化を体験したのです。単なる連帯の範囲をはるかに越えたのです。人々は統治主体へと自己変革し、官製のシステムの崩壊を市民による秩序の確立へと変えていったのです。民主主義が、突如として、各個人にとって重要なものになることがあるのです」
　モンシバイスは「私たちを苛んでいる資本主義は人間の生活への無関心さに基盤を置いている」と見事に指摘しています。地震を契機として、偉大なるメキシコ国民に対する讃歌が歌われはじめ、正常化への道は全速力で進められました。しかし、ほんとうの英雄的行為とは、殉教精神を讃える決まり文句を放棄し、天罰が下されるという予言など気にせず、集会や行進や座り込みを組織し、当局に要求を突き付けることなのです。
　大学からきた支援隊のひとりは、サッカー場に派遣されました。そこに収容されていた何千もの遺体の燻蒸消毒するためでした。遺体の燻蒸消毒は家族に遺体を確認をしてもらうために行われました。その隊員は私たちに次のように語ってくれました。

　「その時は、男性・女性・子供たちが亡くなってから３日間が経過し、相当に腐敗が進んでいました。担当の医師は『遺体を燻蒸消毒をするように』と私たちに指示しました。20メートルほど先にビニール袋、ドライアイス、そして山積みになっているものがありました。その山積みになり中途半端にビニールで覆われていたのは、人間の死体だったのです。噴霧器がホルマリンを勢いよく放つと、ビニールがめくり上がりました。
　私が最初に見たのは、地面に手足を広げ、白い肌をした背の高い若い女性でした。身体中あざだらけで、丸裸で、陰毛は剃られ、母乳を蓄えた非常に大きい胸をしていました。『フアレス病院・産婦人科・76番』という名札が付けられていました。私は彼女の腹部に帝王切開による半月状の裂け目があることに気付きました。その女性が子供を生んだばかりだったとわかると、とてもやり切れなくなりました。明らかに子供を生める身体の女性のものでした。血の気を失った遺体は、彫像、それもひどく傷んだ彫像のようでした。　　『それにしても、なぜ死んだの？』
こうして、私は、知らないうちに、死者たちとの対話を始めていました。薬剤を散布をしながら、私は死者たちに話しかけながら、自分と対話していたのです。遺体に向かってに尋ねました。『なぜ、死んだの？』と安物の布地の服を着た太った女性の姿が目に入ってきました。たくさんの人たちを見ました。私はとてもいたたまれない気持ちなり、死者にむかって言いました。
　『こんな粗末な服を着ているあなたを見つめる権利は私にはありません。裸の姿のあなたを見る権利もありません。あなたを見る権利なんて』
　私は薄暗く黒ずんだ遺体を数多く見ました。そして、ある瞬間から、次のように繰り返し始めたのです。『こんなのはもう人間とは無関係である。もう人間なんかじゃない』。自分自身をかばうかのように私は何度も繰り返し言いました。
　『これは単なる有機物でしかない。押しつぶされた腕、むくんだ顔、外に出た舌。これは単なる有機物である。ここにはたくさんのバクテリアがあり、それが拡散するのを防ぐため、私は薫蒸消毒をしているのだ』
　ふと振り返ると、左側には両目を見開いた女の子が見えました。壊れた人形のように微笑みを浮かべている８歳の女の子でした。『ねえ、なぜ走って逃げなかったの？ どうして、あなたの上に梁が落ちてきたの？』『これはあってはならないことである』という心の底からの怒り、激怒、憎悪を抱きながら、ずっと私は遺体たちと対話を続けたのです。　『この国で、病院や学校や役所や公共施設の建物が崩れることはあってはならない』
　痩せて、背の低い、褐色の肌をした典型的なメキシコ人の若い男性がやってきました。彼はきつい仕事を続けてきた人で、スラム地区の共同長屋に住んでいることはまちがいありませんでした。彼は摺り切れて薄くなったセーターを着ていました。ああ、私たちメキシコの人々はどうしてこんなにも守られていないでしょうか。彼は何と見離されていることでしょうか。こうした無一物の人を目にすると、あなたも心の底から怒りが湧いてくるでしょう。
　『遺体を入れる棺桶は？』と彼は尋ねました。
　『棺桶の件はどうなってるのですか？』
　彼に必要な棺桶は３つでした。遺体を入れる棺桶。彼は、代金を払わねばならないのか知りたがっていました。しかし、この無垢の人にどうやって払えというのでしょうか。
　『もう身内の方の確認はできましたか』
　『ええ、あそこにいます。でも、棺の件はどうなっているんですか？』
　『いや、棺なら無料です。今すぐお渡しします』
　『お一人で来られたのですか？』
　彼は、亡くなった姉と２人の姪を探しに来ていました。姪は14才と９才でした。私は本当に悲しくなりました。私はもともと気が小さい人間でしたので、その時は誰の遺体をも担ぐことができませんでした。私は、彼が身内の人たちを引取るのを手伝うことができませんでした。私にはその力がなかったのです。私は彼に言いました。
　『ごめんなさい。遺体を担ぐことができません。私には、私にはできないのです。そんな力はないのです』
　すると、大学から来ている太った支援隊員が言いました。
　『ヤレヤレ、兄弟よ。俺だってぞっとするよ。気持ちが悪いからじゃない。怖いからだよ。でも、あの男の子がかわいそうだから、俺が手伝うよ。あんたは、しかっりホルマリンを撒いておればいい』
　こう言うと、彼は痩せた青年についていきました。その間、私たち―クラウディア、ジョバンナ、私の３人は棺桶を準備していました。大きい棺桶が１個、小さいのが２個でした。私はその一つに２本の釘が出ているのに気づきましたが、『しょうがない。構やしないよ』とつい言ってしまいました。
　その後、件の青年は、自分のテニス靴でその釘を押しつぶそうとしました。しかし、うまくいかず、板で釘を折り曲げようとしている姿が見えました。この彼のたった一つの行為が、サッカー場に横たわっている遺体に人間という意味を与えたのです。というのは、４時間の間、この空間で唯一の現実はバクテリアにどう対処するかという問題だけであると、私は信じ込んでいたからです。しかし、その痩せた青年にとって、いくらバラバラの遺体としても、彼の身近な人であり、その遺体は釘によって傷つけられてはならない権利を持っているはずです。太った支援隊員が遺体を棺桶に収めるのを手伝い、痩せた青年に尋ねました。
　『身内の方に石灰を撒いてもよろしいですか？』『はい。お願いします』
　14才の女の子は小さい棺桶に入りきらなかったのです。そのため、大人用の棺桶に移し替えなければなりませんでした。その女の子に石灰を撒き始めた時、私はハムレットのことを思い出したのです。すでに気の触れていたオフェリアが溺死した時のことです。
　ハムレットの母は彼女の亡骸にスミレの花を投げながら、次のように思ったのです。
『ああ、あなたの結婚式のベッドに置くはずだったこの花をあなたの遺体の上に置きに来ることになってしまいました』
　私もまったく同じような気持ちでした。
『今、私はあなたに石灰をかけているんですよ。お嬢さん。真っ白になってもらうためにね。ただ、石灰で白くなるのですが。あなたは生きていたなんて言えません。まだほんの14才ですからね。あなたの身体は真っ白くなっていますよ』
　純潔、威厳、無垢といった白色に関して思い浮かべるあらゆる連想にもかかわらず、私はほんの小量の石灰しか撒くことができませんでした。彼女に花が捧げられることはありませんでした。ほんのわずかな石灰しか捧げられなかったのです。
こんなふうに、彼女はこの世を後にしたのです」