メヒコ、夜の鏡と昼のガラスのなかの月
(1995･5)
「ガラスにするために君が欲しい。鏡のためではない」－ペドロ・サリナス－
一九八五年五月。夜明け前。鏡のような湖面に月の姿が映っている。湖は嫉妬に駆られ小波をたて、月の顔は皺だらけになる。われわれは丸木船に乗り込み、湖の対岸へと至るルートを進む。湖を横断しようという私の決意と同じぐらい、丸木船は揺るぎなく安定している。自分の作った丸木船に乗ってみないかと、老アントニオは私を誘ってくれた。新月から満月を経て二十八夜もかけて、老アントニオはマチェーテと斧を使って、杉の長い幹を加工しつづけた。丸木船は全長七メートルもあった。丸木船は杉、マホガニー、ウァナカストレ、またはバリイで建造できると説明しながら、老アントニオは名前をあげた各種の木を私に教えてくれた。老アントニオはそれらの木をひとつずつ私に示したが、私はそれぞれの違いがよくわからなかった。私にとってはどれもが巨木であった。しかし、それは昼間だった。今、いつもどおり夜明け前に、老アントニオが「ラ・マルコンテンタ」と命名した例の杉の丸木船に乗り、われわれは湖を横断している。細長い棒で船を操りながら、老アントニオは「月に敬意を表してだ」とつぶやいた。われわれはすでに湖の中央に達していた。風で湖面は櫛ですいたように波立ち、丸木船は上へ下へと揺れた。老アントニオは風が鎮まるのを待つべきであると判断し、船を流れるままにしておいた。「この波だと一撃で丸木船から放り出されるかもな」とつぶやきながら、彼は噛み巻きタバコを一服すると、風でできた波と同じような渦巻き状の煙を吐き出した。ミラマール湖に点在する大きな岩礁のシルエットが満月の光ではっきりと見えた。渦巻き状の煙を吐きながら、老アントニオは昔から伝わる物語を語りだした。目前に迫っている難破（船酔いか恐怖かはわからなかった）が気に掛かり、私は彼の話や物語を聞くどころではなかった。一見したところ、そんな私のことを気にする様子もなく、彼は丸木船の底に横になると、何の断りもなく話しだした。
鏡のお話
「月はこの場所、つまり密林で生まれた。はるか昔の古老たちはそう話していた。ずいぶん昔のことだが、神々はずいぶん遊び、多くのことをすることに疲れ、ずっと寝つづけていた。世界はちょっとばかり静かになっていた。世界は沈黙していた。しかし、小声でシクシクと泣く音が彼方の山のほうで響きはじめた。神々は山の真ん中にいる湖をまったく失念していた。大地にさまざまなものを分配していた時、この小さな湖が残ったが、神々はどこに置いていいのか分からず、広大すぎて誰も踏みいったことのない山の真ん中に放置していた。独りぼっちになり、小さな湖は泣きだした。湖は泣きわめき、その泣き声を聴いて、世界を支える母なるセイバの木の心は悲しみに包まれた。身に着けた白色の大きなスカートをたくしあげ、セイバの木は小さな湖のいる所に近づいた。
泣きわめき小さな水溜まりになった湖に、「どうしたの？」とセイバの木は尋ねた。
「独りぼっちはいやなの」と小さな湖は答えた。
「私が傍にいてあげるから」と世界を支えるセイバの木は言った。
「ここにいたくないわ」と小さな湖は答えた。
「じゃあ、私が連れていってあげる」とセイバの木は言った。
「地面に貼りつく低い所は嫌い。あなたみたいに高い所がいい」と小さな湖は答えた。 「それじゃあ、私の頭の高さまで持ち上げてあげよう。だけど、ほんのちょっとだけだよ。風がきつくて、君は吹き飛ばされるかもしれないからね」とセイバは言った。
母なるセイバの木はスカートをできるだけたくしあげ、小さな湖を両手でつかもうと屈んだ。世界を支えるセイバの木は、母のような細心の注意を払いながら小さな湖を前髪の所に置いた。小さな湖がずいぶん痩せていたのを知っていたので、小さな湖から一滴の水もこぼれ出さないように注意しながら、母なるセイバの木はゆっくりと身を起こした。
高い場所に着くと、小さな湖は叫んだ。
「こんなに高い所って、とっても気持ちがいい。世界を知るため私を連れていって！世界中を見たいわ！」
「お嬢ちゃん。世界はとても大きいの。高い所にいると落ちるよ」とセイバは答えた。 「いいから、連れてって！」と小さな湖は言い張り、前のように泣きわめきだした。 小さな湖が前のようの泣きわめくのが嫌だったので、母なるセイバの木は頭の上に彼女を乗せ、まっすぐ歩きだした。この時以来、女は水が満湛の瓶を頭の上に乗せ、一滴の水もこぼさず歩けるようになった。小川から水を運ぶ時、密林の女は母なるセイバの木と同じ格好で歩く。背をまっすぐ伸ばし、頭をあげて前方を見つめ、夏雲のように軽やかに歩む。気持ちを和らげる水を高々と頭に乗せて運ぶ時、女はこんなふうに歩むのである。 母なるセイバの木は歩くほうが都合がよかった。というのは、当時の木々は静かに落ち着いておらず、こどもを作って世界を木で満たしながら、あちこち動き回っていたからである。しかも、風はその辺りを吹き抜けながら、ヒューヒューと単調な音をたてていた。母なるセイバの木を見つけると、風は彼女のスカートを手でまくし上げ、からかう気になった。しかし、セイバの木は怒って、風に言った。
「風さん、ちょっと静かにして！泣き叫ぶ気まぐれ小さな湖を頭の上に乗せて運んでいるのが見えないの？」
そこで、風はセイバの木のカールした前髪という高い所に見え隠れしている小さな湖を見つめた。風にはその小さな湖の姿がとても美しく見えた。風は彼女を好きになったのではないかと考えた。そこで、風はセイバの木の頭上まで舞い上がり、小さな湖に聞こえるように、素敵な言葉で話しはじめた。やがて、しきたりに従って小さな湖は風に告げた。 「私を世界中に連れていってくれる。だったら、私、あなたについていくわ！」
風は彼女の言葉に躊躇しなかった。雲で一頭の馬を作り、その後に小さな湖を乗せた。あまりにも素早かったので、いつ小さな湖が自分の頭から連れ去られたのか、母なるセイバの木は気づかなかった。
小さな湖は風とともに出かけ、楽しい時間を過ごすようになった。なんてきれいな娘なんだろうと、風は小さな湖に言った。いたずらっ娘はなんて可愛いのだろう。小さな湖が湛えている水でも癒せない渇きとは何だろう。なぜ小さな湖に身を沈めてしまわないのだろう。小さな湖を口説き、夜明けの奥まった場所で彼女と愛を交わそうと、風はいろんなことをつぶやいた。とうとう、小さな湖は風のつぶやいたことをすべて信じるようになった。水の溜まった場所、つまり湖の上を通過するごとに、小さな湖は自分の姿を見つめ、湿った髪を整え、潤んだ眼を半開きにし、丸い顔に小波を浮かべ、媚びる格好をした。
しかし、小さな湖はあちこち歩き回りたいだけで、明け方の奥まった所で愛を交わすつもりはなかった。嫌気がさした風は彼女を連れて上空に舞い上がり、そこで大きな声を出して彼女をからかい、ついに彼女を放り出した。小さな湖は落下していったが、かなり高いところにいたので、落下にかなり時間がかかった。そうでなければ、ずいぶん激しい衝撃を受けたはずである。小さな湖が落下するのを眺めていた星たちが駆け寄り、小さな湖を星の光の切っ先で突き刺した。七つの星は両脇を組んでシーツのようにして小さな湖を捕まえ、再び天空に放り上げた。小さな湖は落下時の恐怖で青白くなっていた。大地に降りたくなかったので、小さな湖は一緒にいるように星たちにお願いした。
「いいよ」と星たちは小さな湖に答え、「だけど、われわれが行く所へ、あなたもわれわれと一緒に行かないといけないんだよ」と言った。
「はい」と小さな湖は答え、「私はあなたたちと一緒にいくわ」と言った。
しかし、いつも同じ道ばかり歩くので悲しくなり、小さな湖はまたヒーヒーと泣きだした。彼女の泣き声で目覚めた神々は、いったい何が起きたのか、どこから泣き声が聞こえて来るのか探りに出掛け、七つの星に引かれて夜を横断する小さな湖を発見した。ことの成り行きを知り、神々は怒りだした。というのも神々は、湖を天空を歩むためではなく、大地にいるために創ったからである。小さな湖のいる場所に赴き、神々は言った。
「おまえはもう湖ではない。湖は空に居るものではない。もう、おまえを地上に引き降ろさない。ここにずっと居なさい。おまえは「月」と名乗りなさい。媚びと自惚れの罰として、大地で光を留める場所である井戸に向かっていつも光を投げ掛けなさい」。
こうして、星の輝きや活力が消えた時、水を飲みに来れるようにと、神々は大地に光を留めさせる大きな円い穴を作った。それ以来、月は自ら光を発することができず、光を反射するだけの鏡になった。満月の時は、星が水を飲む大きな光の穴の真向いで、月は光を反射している。光を反射する鏡、それが月である。だから、月が湖の正面を通過する時には、鏡が鏡を見つめることになる。そんなことを望んでいなかったので、月は満足もしていないし、怒ってもいない。良くない満足をしているわけだ。
小さな湖を甘やかし連れ歩いたかどで、神々は母なるセイバの木も罰した。出歩けないように彼女に歩くことを禁じ、世界を担ぐように命じ、泣き喚く声を聞いて悲しくならないように二重の皮膚をまとわせた。それ以来、石のような肌をした母なるセイバの木はすっと聳え立ち、動く気配はない。もしセイバの木が少しでも動けば、世界は墜落する。
「まあ、こんなわけだ」と老アントニオは言った。それ以来、月は大地のなかに保存されている光を反射する。だから、湖を見つけると、月は自分の髪と顔を整えるため静止するのである。だから、女性も鏡を見ると、自分の姿を見つめるため立ち止まるのである。鏡はは神々の贈り物である。髪と顔を整えることができ、気ままに散歩して天へ昇ろうという気が起きないように、それぞれの女性に一片の月が与えられたのである。
老アントニオの話はこれで終わった。しかし風は止まなかった。波は小舟を翻弄しつづけた。しかし、私はじっと黙っていた。老アントニオの言葉を反芻していたのではない。口を開けると、月が媚態をひけらかしながら激しく波立つ鏡のような湖面に、私は肝臓まで吐き出すのは確実だった。
Ⅰ 恨みと困惑の夜に
メヒコではときおり、月の色が閃光のように赤くなることがある。螺鈿を鏤めた月の顔を照らしだすのは、羞恥や血ではなく、勇気と恨みである。メヒコの夜の長い旅の帰途、月は鏡のなかで何度も反復してきた道を終え、再び疲れる道に乗り出すことになった。恨みと・・・そして困惑から、視線は真っ赤になっている。
どうして？何を見てきたというの？口篭もりながら、押し殺した、五月の風の渦巻きのようなか細い糸のような声で、月は自分の歩んだ過去の旅について語る。メヒコの夜を歩んだこと、われわれの現代史そのものである鏡のなかの巨大な迷路を躓きながら、・・・第一の鏡に辿り着いたことを話す。
第一の鏡：鏡ならびにイメージとしての権力
第一章：鏡の前に置かれた鏡、権力のイメージの二重の二重性がもっている一貫した曖昧さとともに、われわれが信じるべきといわれてきた偉大な真実についても検証する。権力は必要不可欠で、永遠に存在するという事実である。
第一の二重性
鏡は権力に二重のイメージを映しだす。言明されるものと実践されるものである。この鏡は何も隠さない。鏡の前に立つと、万策が尽き、以前のものでなくなる。鏡の表面は錆が浮き汚れている。もはや鏡は現実を「転倒」しない。逆に、鏡は矛盾を示す。しかも、矛盾を暴露することで、鏡は矛盾を制御し、矛盾を役立つものに変える。そして、この矛盾するイメージが「自然で、明白で、議論の余地のない」ものであるように見せ掛ける。 一九九四年の前半が驚きや事件だらけでまだ整理できていない半年であるなら、一九九五年の前半は新自由主義の針路とは結局は針路がないことであることが承認された半年といえる。矛盾とその場凌ぎが新しい国の政策の屋台骨であり、政府の計画になっている。 「あなたの家族の福祉」が喧伝されたが、欠乏、失業、経済指標の悪化が目立った。
「政治交渉による和平」が喧伝されたが、戦車、飛行機、ヘリコプター、数千人もの兵士といった軍事面での強化が目立った。
「明確な政治改革」が謳われながら、首長の強行就任が後押しされ、徐々に自分の土地の占領軍の性格を色濃くした軍隊の援護で維持される「民主主義」でしかなかった。
「民族主権の防衛」と言いながら、それは国の資源を売却するための値札と化した。
「つねに真実を語る」と言いながら、マス・メディア、とくに電子メディアの操作が目立った。嘘が下手すぎて、腹が立つというより、驚き、笑い転げてしまった。
「何をどうすればいいか分かっている人」と言いながら、「何をどうすればいいか分かっている人なの？」と、疑問符を付け加えなければならなかった。
権力の鏡は「私か、ファシズムか？」と語る。そして、国家による弾圧、迫害、テロ行為を強化する。「私か、無政府主義か？」と語る。そして、権力に握られた政治、経済は針路も秩序もなく、大きく揺れる。「私か、混乱か？」と語り、官僚は事実と言葉に関して言を左右する。「私か、不確実さか？」と語る。唯一確実なのは、未来は着地したことのない未知の場所にある。
第二の二重性
権力の鏡が提供するイメージは二重である。
ひとつは内側に向けてのイメージである。権力が権力に見せるイメージである。自分の姿を目のあたりにして、傲慢にも自分の素晴らしさを証明しようとする。次のような言葉で自分のイメージを語る。
「われわれはつねに不変の同じ姿でいる。少数派であるからこそ、われわれは金持ちである。われわれは過去をたっぷり持ち込み、未来の不確実性を埋め合わせる。昨日は今日になりうるし、健全なドル投資と適正な宣伝キャンペーンを行なえば十分である」
権力にとり、現在とは過去を振り返り体力を強化する鏡である。自分の内奥を見つめようとはせず、危機によって眩暈を引き起こす。
一方、権力とは外側に向けてのイメージでもある。権力が外部消費者、すなわち国際的な消費者に向けて提出するイメージである。それでは、メヒコの人民に提供される権力のイメージはどんなものなの？結局、それはメヒコ政府ではないの？ちがうの？それなら、何も心配することはない。メヒコ政府のイメージならこの国に届くだろう。外国のマス・メディアによってだけれど！経済状況、内政、未解決の要人暗殺に関するあらゆる情報は外国のニュース配信社を通じてメヒコ人民に届くだろう。経済の動向を知るために、ふつうのメヒコ人は自分の給料、購買力、労働や財政の安定性、生活水準などに目を奪われてはならない。そうではなく、別の国や国際機関！の役人の声明を信頼すべきである。
権力、すなわちメヒコの権力の同義語であるる新自由主義は、被統治者に対して自己を正当化する運動を展開することなど断念している。今や、鏡は新しいトリックを使っている。非合法性というイメージを「倒置」し、それを正統なものに「変換」しようとはしない。「非合法性」というイメージを新しい別のイメージで「覆い隠す」べきである。そのイメージとは、当初のイメージを消去したり、副次的レベルに下げる、「合法性」と名付けられたイメージである。正統性を獲得できず、それを獲得するため戦う力もないため、権力は「合法性」の衣をまとう。合法というマントをまとえば、法律侵犯をはじめ何でもできる。今や、非合法なのに合法というイメージをまとい、権力の鏡は活動している。
メヒコのふつうの市民は、自分たちが選出した(ことになっている)政府が自分たちを代表し、市民の福祉を理解することを期待できなくなる。むしろ、鏡の前に置かれた鏡のなかで反射されるイメージのように際限がなくなるが、法律を・体現する・政府を・体現する・法律を・体現している政府に我慢しなければならなくなるだろう。
それが権力である。同じ言葉を反復する鏡なのである。自分のイメージ、自分が生みだした鏡像のなかで、権力は次のように語る。
「我、必要ゆえに存在す。我、存在するゆえに必要なり。ゆえに我、存在し必要なり」 自分から受け取ったイメージで権力は自己満足できるかのように、権力は十分であることを知り、再び鏡の前の鏡を永遠に繰り返す。
カッコ：鏡のイメージの細部(権力の交替。姿を映す角度は変わるが、鏡は同じ)。
権力のイメージは、ポピュリズムと新自由主義、恐竜支配とテクノクラート支配、ＰＲＩとＰＡＮとのあいだで、一番見栄えのよい魅力的で効率的な角度を探そうとする。昨日と比べて、システムは強くも弱くもない。自己の矛盾を継続させ、同じ道を歩み、自己のイメージの再生を権力に保証するという同じ成果を生み出すため、権力は突然変異を準備している。右翼はつねに鏡の一部だった。すでに権力のなかにいるという単純明快な理由で、右翼は正統性という道を通じて権力を手に入れることなど考えてはいない。
何度も反射されたためイメージは枯渇し、磨耗し、摩滅し、観客は苛立っていることに気が付いている。効率を失い、役立たずになり・・・犯罪的になっている。
新しいイメージ(新しいイメージではなく、ひとつの細部の第一面への浮上である)が必要となる。提起される権力の交替は、実際には鏡のなかでのイメージの交替である。権力という同じ鏡に写る同一のイメージの細部で第一面と第二面が交替することである。
昨日、サリナス体制支持者だった者も、今日はＰＡＮ体制支持者になり、昨日、恐竜だった者も、今日は外国の大学院で勉強した小さなトカゲのテクノクラートになる。
映る姿の変更が用意されているのは二〇〇〇年ではない。現在のイメージが世紀末まで続くのがきわめて困難なことは、権力内部では公然の秘密となっている。
古びるのはイメージである。権力という鏡は永らえる。
＊ ＊ ＊
脱出すべきことが分かっていた悪夢から脱出した人のように、吐気と恐怖とともに月は蒼白のベールを脱ぎとる。ひとつのイメージから別のイメージへと跳ね返りつづけたことに気づき、隈ができ憔悴しきった月は失望した顔をする。新しいイメージは、鏡が第二の鏡にただちに見つけた自分の姿である。
第二の鏡
第二章：反対派勢力という数多くの真実があること、権力は市場という皮肉な技術を駆使しどのように敵対者を買収するか、権力の鏡で歪められたイメージについて話そう。
第二の鏡には反対派が映っている。メヒコで反対派でいることはきわめて簡単である。ＰＲＩ支持者でなければよい。しかし、反対派に対する反対派もいるはずである。今から二十年前まで、メヒコの合法政党の配置はきわめて簡単だった。ＰＲＩが中央で、その右側にＰＡＮ、その左側にもＰＲＩ、ときおり人民社会党(ＰＰＳ)がいた。メヒコ革命真正党(ＰＡＲＭ)はいくつかの地区で政党として機能していた。当時、非合法の状態であったすべての反対派は最左翼に位置していた。
十年後、様々な左翼組織が政治権力をめぐる合法的闘争に徐々に参加しだした。メヒコの政治構図の左翼の場所は、諸党派によって争われた。中央にはＰＲＩが厚かましく君臨しつづけた。中央のＰＲＩは、鏡の写り具合で、左にも右にもなりえた。しかし、中央にも危機が訪れた。システムの危機は政党の危機でもある。内部危機としては一九八八年の大統領選挙の直前のＰＲＩの内部分裂が最大である。従来欠落していた指導者にふさわしい人物として、国民行動党はカリスマ的なマキオを探しだした。分散化していた合法左翼は、内部同盟も悪くはないことに気がついた。姓はカルデナス、名はクアウテモクという厳格な顔付の人物を核にして広範な戦線が誕生した。社会から発生したきわめて多様な不満が爆発し、新カルデナス主義へと繋がった。社会不安から人々は投票所に向かい、大統領選挙でＰＲＩは初めて反対勢力に敗北した。選挙での敗北と権力委譲とはまったく別の問題であった。自動制御の機器の奇跡まで動員した不正により、ＰＲＩは法律的には勝利したが、正統性は失ってしまった。新大統領の任期が進むにつれ、選挙後の抗議運動は勢いを失い、アルモラヤ刑務所の収監予定者のカルロス・サリナス・デ・ゴルタリは自分のまわりに嘘偽りの巨大な鏡を構築していった。電子メディア、反動的な聖職者、巨大な資本、星条旗が彼を支援した。権力のなかでは次のように言われていた。「すんでのとこだった！」「二度と起きないようにしよう！一九九四年に備え、今から活動しよう！」
カルデナス・ソロルサノを核として形成された戦線は徐々に攻撃を浴びるようになり、通信衛星を通じて、いつものごとく偽情報がまき散らされた。広範な反対派戦線は、政党結成を試み、民主革命党(ＰＲＤ)となった。発足したばかりの政党は自らの血を流すことになった。選択的な暗殺によって、クアウテモク・カルデナスとＰＲＤに対するサリナス政権の反対キャンペーンに付随する死者の帳簿は埋められだした。
この種の攻撃の最中に誕生したＰＲＤは、特定の戦線とか政党がもつあらゆる欠陥を総合しているようである。この国家政党システムの代替物の模索という過程で、ＰＲＤを構成する旧ＰＲＩ勢力は再び鏡像の類を作ってしまった。とはいうものの、自分の生命と引き替えにして、ＰＲＤは市民が政治参加する重要な空間を開拓できたことは否めない。現在メヒコにある小さな民主的空間のかなりの部分はＰＲＤのおかげで存在する。
権力から受ける数多くの攻撃こそ、反対派としてＰＲＤが受け取る最良の賛辞である。ＰＲＤを恐れる余り、権力はなりふり構わず始終ＰＲＤを攻撃する。反動派の思想家どもの大きな頭は、さまざまな分析をもとに、反対派政党を自認できる唯一の登録政党ＰＲＤの機能停止証明書を書こうとしている。カルデナスに関しては、彼を死んだ政治家と宣言しようとするのは権力だけではない。政党内の同僚までもが彼を処分しようとする。とりわけ、権威主義体制への非妥協という、彼が体現するものを解体しようとする。
ＰＲＤは今はやりの中道をめぐる陣取り合戦という鏡に閉じこめられたようである。輪郭が薄くなった合法左翼は、全員が入り混じる空間を獲得するため戦おうとしている。中道になりたいのはＰＲＩやＰＡＮであり、マヌエル・カマッチョ・ソリスである。彼らの言によれば、中道が保証するのは、苦痛を伴わない移行、安定した代替策、「断絶なき変革」である。この熾烈な争いが展開されている空間に関して、ＰＲＤはよい機会をいっさい有さない。ＰＲＤ内の「対話派」と「非妥協派」のあからさまな対立は、現実には中道として陣地を獲得し(ＰＡＮの選挙戦「勝利」を再演出)ようとする者と天職・・・そして歴史としての左翼であることを選好する者との戦いである。
ところで左翼は？ＰＲＤが捨てたがっている空隙を占有しようとする議会左翼はない。しかし、左翼はいる。非合法(地下組織を意味しない)であるため、地域的な空間やいわゆる「一定の状況」下で、彼らの政治的活動や影響力が無力となるわけではない。
合法左翼も非合法左翼も、人食いの鏡を共有しているようである。その鏡は自分に近いものすべてを呑み込むが、深刻な消化の問題に悩まされ、呑み込んだもの吐き出すことになる。左翼と自認する左翼はすべて前衛である。それは、どこに進むのか誰も知らず、同行する「協力者」もいない前衛が多くあることを意味する。「政治的現実主義」と厚顔無恥が、なによりも共通する理屈であり、いちばん必要な商品である。新左翼は古い政治を信奉し、彼らの掲げる標語はメヒコの反対派の大きな鏡のなかの小さな鏡である。
左翼反対派はバラバラで、お互いに対立しているが、降伏することなく、弾圧を受けても再び立ち上がり、(何があっても自らを犠牲にして)戦い、革命が必要であり・・・可能である・・・と考えつづけた栄誉を有している。それは誰も反駁できない。
＊ ＊ ＊
勇気や挫折感とともに、月はこの鏡像の繰り返しから抜け出す。二つの鏡を通じて、ひとつの閃光が判別できるようになる。雲や暴風の熟練した旋回や曲芸の洗礼を受けつつ、刃のように細かった月は幅を増し、力を放出しながら第三の鏡に映る像となる。
第三の鏡
第三章：「人民」、「無党派層」、「市民社会」、「多数派」、「待ち望み、熱望する大衆が前衛であること」などについて語る。そして、名前、声、顔はないが、投票権を行使し、兵の一員となり、デモで叫び、座込みを防衛し、消費者、テレビ視聴者、ラジオ聴取者、読者、そして各自の責任でいくらでも付け加えられる活動をする人に与えられるあらゆる名称について語る。
近年のきわめて大規模な動員の主役は、あらゆる状況で完全に打ち据えられた人たちである。危機、とりわけ新自由主義のテクノクラートが行なった「素晴らしい」危機管理によって、どんな革命的前衛も夢想だにしなかった意識化の奇妙な運動が展開している。ますます悪化する経済の実情から、必然的に人々の頭や心のなかに変革の願望が植え付けられていく。電子通信メディアは非効率性を露呈しつつある。権力の非合法性はマスコミに対する影響力を失い、サブルドフスキー、フェリス・デ・コン、アラトーレや同類のコメンテーターの話を何の疑いもなしに聴くテレビ視聴者はいない。
上層で何かが悪臭を発し、何かが腐敗している。腐敗したものは、日常にも劇的な影響をもたらす。自殺者が増加している。経済危機は、株式市場や巨大銀行、または金融分析に関する出版物の特集頁の外へ飛び出してしまった。今や経済危機は「メヒコ人民」と呼ばれる多数者の食卓にまで浸透している。衣・食・住、労働、愛、さらには死にまで、危機は料金を徴収しだした。帳面に付けられている以上、支払わねばならない。
危機はあらゆる反対派戦線が夢見ていたことを実現する。「繁栄」期には分断され、しばしば対立していた社会のさまざまなセクターや階級を団結させている。
出発し来年まで戻らなくてすむようにと、五月は自分の荷物をまとめている。ニュースが新聞に紛れ込んでいる。
国内では一九二〇万人の雇用が不足している。
一九九五年、少なくとも一二〇万人の求職者が増加した。失業者は六〇〇万人に達し、半失業者は一二〇〇万人となった。
経済的活動者は三六〇〇万に増加した(メヒコ総人口の四十％)。(大蔵公共信託省)
一九九五年、少なめに見積もっても、六二万二千人が解雇される。
大蔵公共信託省によると、第一四半期での解雇者は四三万六一九一人である。
経済学者連合(ＧＥＡ)によると、一九九五年の国民総生産は四・九％低下するという。 今年、一九九五年に、最低賃金は実質購買力に換算して一七・六％減少するという。
(以上は『ラ・ホルナーダ』紙、一九九五年五月二十九日号による)。
しかし、経済が結びつけるものを政治は分断してしまう。一九九五年のメーデーはこの数十年間で一番大規模な全国的な自立派の動員が記録された。メーデーにはふたつの特徴がある。ひとつの特徴は、この大量動員は政府の政策に対する抗議であることで、もうひとつは統一された政治指導部が不在だったことである。大量動員は大規模な不満の徴候である。しかし、統一司令部の不在は「何か」が足りない徴候である。
「語りること」の新しい創造的な形式によって、「メヒコ人民」と名付けられる民が創りだされている。「メヒコ人は何でも我慢できる」という言葉に要約されたメヒコの希望に対する死亡宣告は、矛盾を抱えだした。たどたどしい形ではあるが、希望は自らの言葉を実験し、新しい言葉の体系を構築し、新しい鏡、新しいイメージを作りだす。
＊ ＊ ＊
一縷の希望を抱き、月は第三の鏡を後にする。悲しい別れを告げる。明け方、突然に姿を消すため、寒さで疲れ凍えきった月は、西の海に沈むと、服を着込む。波立つ鏡を見ながら、塩水で顔を清める。夢と泡が邪魔となり、月は彼方で開く第四の鏡が見えない。
第四の鏡
第四章：東の海に向かって、ヨーロッパの地で、われわれと同じ災厄、つまり希望という病を分かちあっていることに気がついた男や女にも挨拶を送る。
第四の鏡を見るに際しての指示は次のとおりである。
どんな鏡でもよいから見つけて、その鏡をあなたの前に置き、姿勢を楽にしなさい。そして、深呼吸をする。眼を閉じ、次の言葉を三回繰り返しなさい。
「私はありのままの私である。私がなれるものは限られている。鏡は私がどのような存在かを示す。私がなれるのはガラスである」
それが済んだら、眼を開けて鏡を見なさい。あなたの姿ではない。視線を下に向け、左にやりなさい。できた？よろしい。よく注意して見なさい。すぐに別のイメージが登場するだろう。行進だ。南東部からくる男、女、こども、老人たち。そう、メヒコ市に通じる道路だ。キャラバンの左横を歩くものが見える？どこ？そこの下、地面だよ。ああ、小さな黒っぽいものがいる！何だ？あっ、甲虫だ！今一度ご注目を。この甲虫こそ・・・。
ドゥリート第Ⅳ部：新自由主義と国家政党体制
ドゥリートは全速力を出している。何日にもわたる行進や病みあがりにもかかわらず、タバスコの人たちは疲れた気配すら見せていない。この『民主主義と民族主権を求める脱出』が今朝始まったかのように、彼らは歩んでいる。この前のサパティスタの叫び声と同じようにメヒコの南東部から、今一度国全体に向けた呼び掛けが行進している。サパティスタと同じように、民主主義、自由、正義を希求する。メヒコ南東部の英雄的な熱狂のなかで、希望はタチカムという言葉を暗示している。それはよりよい未来を模索しようという希望の集結である。踊る権利が憲法で保証される場所を夢見ることである。
行進が止まったので、体が火照っていたドゥリートは潅木の下に潜りこんだ。しばらくして呼吸が整うと、おもむろにドゥリートは紙とペンを取り出した。密林に残してきた小さな机の代わりとなる石の上で一通の手紙を書きだした。いいから！恐れることはない！ドゥリートの肩越しに覗くと、次のように書いてあった。
メヒコ・サパティスタ民族解放軍
メヒコ連邦地区、メヒコ国立自治大学(ＵＮＡＭ)、教授にして研究者の某氏宛
メヒコのＥＺＬＮ副司令官マルコスが従者を務める遍歴の騎士、ラカンドン密林のドン・ドゥリートより
拝啓：
遍歴の騎士という高貴な天職を遂行する甲虫の私が貴殿に手紙を認めることは、貴殿は奇異に感じられることでしょう。貴殿に迅速かつ簡単に説明しますから、貴殿は心配されることもありませんし、精神分析家の診断を仰ぎに出掛けるにも及びません。「民主主義への移行」に関する本(またはその類いのもの)のために論文を書いてほしいと、貴殿は副司令官に提案されたそうですね。その本(何であれ)は、ＵＮＡＭで編集されるのでしょう（出版業界の危機や用紙代の高騰を考えれば、誰もその本を読まないことは確実に保証されているといって差し支えないでしょう）。契約は以下のようになっています。ＵＮＡＭが執筆「協力者」に支払うことになっている千新ペソという途方もない金額が、米ドルまたはイタリア・リラ相当額に換算して、トゥリンのフィアットの労働者に支払われるということです。ヨーロッパの労働者の大義に対するサパティスタの連帯の証として、コバスの労働者も、上記の金額をすでに受け取ったことをわれわれは承知しています。貴殿やフィアットの労働者はすでに責任を果しており、責任を果していない悪者は副司令官一人になります。原稿渡しの期限はよく覚えていますが、副司令官が書いていた内容となると何一つ覚えていません。一九九五年一月になっても、副司令官は政府は対話の準備をしていると無邪気に信じ込み、あちこち歩き回っていました。だから、彼は一月には約束の原稿を書いていません。裏切りがあった二月にやっと副司令官は理性を取り戻し、私のもとへ馳せ参じました。騙し討ちから立直ると、彼は論文を書く約束をしていたことを話し、深刻な窮地に置かれている自分を援助してほしいと懇願してきました。ご承知とは思いますが、私は遍歴の騎士です。問題の哀れな人物がデカ鼻の犯罪者であるとしても、われわれ遍歴の騎士は助けを求める者を救済しない訳にはいきません。それゆえ、彼が要求した援助を与えることを喜んで引き受けました。だから、副司令官ではなくこの私が貴殿にこの文章を書いているのです。代理執筆を引き受けたのは二月なのに、どうして五月に書いているのかと貴殿はお尋ねになるでしょう。ある記者が適切な指摘をしていたように、これは「縛り首になった者の反乱」であることをよく思い出していただきたいものです。
この一文をきわめて誠実かつ真面目に認めていることもお知らせすべきでしょう。ですから、私の文体に政府代表団のお歴々の顰蹙を買っている副司令官の無礼な言葉や冗談が紛れ込むことを期待しないでください。だから、書くのが遅れたのです。あまり立腹しないでください。さらにひどい事態もありえたのです。副司令官が貴殿に手紙を書ける日まで待ち詫びることもありえたのです。しかし、あまり当てにならない仕事を待ち続ける意味はありません。そこで、私はこうして貴殿にこの巻紙を送ります。そこには、私の記憶が間違っていなければ、私が提案した以下の表題の・・・テーマが扱われています。
サパティスタの考える民主主義への移行
「ネオサパタティスモによると」といって、意見を述べる人がいます。しかし、老アントニオが「質問のお話」で説明したように、この地では一九九四年のサパティスタと一九一〇年のサパティスタは同じものです。
現在の政治状況が意味すること、民主主義、あるものから別のものへの移行に関して、われわれが考えていることを開示します。
(Ⅰ)現在の政治状況：メヒコにおける民主主義への移行の最大の障害、国家政党体制
現在のメヒコは、社会階級だけでなく、経済や政治的側面、さらには都市や農村における地理的な「組織」に関するまで、メヒコ社会のあらゆる面を横断するように存在する構造的な奇形の状態にわれわれは直面しています。この「奇形」は実際には二十世紀末の世界規模の野蛮な資本主義が作り出したもので、「新自由主義」と呼ばれる仮面を被り、奇形の状態が永続化し、深刻化することによって資本主義は発達するのです。奇形の状態の「均衡を取り戻そう」とする権力の側からの試みはすべて実現不能であり、安っぽいデマゴギー(農村直接援助計画)とか、全国連帯計画という全国レベルのファシズム的統制という古色蒼然とした試みの域を脱することはできないでしょう。つまり、メヒコにおける社会的「不均衡」は緊縮予算政策上の行き過ぎとか問題から生まれたものではないと、われわれ言いたいのです。それを可能にするものは支配システムの本質そのものです。この不均衡がなければ、支配システム全体が崩壊してしまうのです。
われわれは経済や社会面で多様な「奇形」について話すつもりはありません。取り急ぎ政治面での奇形について話しましょう。
メヒコの政治システムは、その歴史的基盤、現在の危機、そして死滅する未来まで「国家政党体制」と呼ばれている奇形のなかに抱え込んでいます。政府と国家政党(ＰＲＩ)の結託だけではなく、反対派の政治組織やいわゆる「市民社会」まで浸透している政治、経済、社会の諸関係で構成されているシステムも関連しています。
このシステム内で政治諸勢力の均衡をとる試みは、最善のものでも、ＰＲＩ内部の民主派や反対派政党の一部の構成員を鼓舞している善意の願望を越えることはないでしょう。現時点でこの政治システムが生き延びるための唯一の方法は、馬鹿げた不均衡を維持することです。一方には政府機構の全勢力、弾圧体制、マスコミ、大資本、ＰＲＩの標章をつけた反動的行政官、反対側には相互対立を最優先する細分化した反対派勢力という構図です。メヒコの政治システムのなかで複雑で有機的に関連している均衡の両端の間、むしろ周縁という位置に、大多数派であるメヒコ人民が置かれています。メヒコ人民という第三の勢力を消去するか、存在させるか、あるいは無気力にするか、動員するかを巡って、国家政党体制と組織された反対派の二勢力は画策しています。第三の勢力を無気力の状態にしようとする体制側の全装置が活動し、第三の勢力を動員しようとする（合法、非合法を問わず）反対派による（公然か秘密かを問わず）政治提案が行なわれているのです。
システムの枠内で不均衡を元に戻そうという試みはすべて不可能です。均衡の回復は、六十年以上かかって強化されたメヒコの政治システムの死を意味します。システムの「競技規則」には、政党制度はともかく、より公正な社会組織という新しいモデルに対する譲歩はあません。それゆえ、独占による支配が一層強化されている経済システムがあるかぎり、提案や要求を自由に行なう夢は実現できません。政治の独占を基盤とする国家政党体制というシステムがあるかぎり、諸政党による自由な政治競争は実現できません。
この問題がこのような（問題は指摘するが、解決策は指摘しないという）形で指摘されていることはお許しください。さらに、はっきりとしない月まで、この説明の続きを先延ばしすることも認めてください。国家政党体制に関する含蓄ある特性規定については、貴殿は優秀な分析者のきわめて説得力のある(皮肉ではありません)分析を参照できます。われわれは、貴殿が準備しているこの本に収録される予定の他の立場との違いを指摘しているのです。つまり、この奇形の「改革」や「均衡を取り戻すこと」を試みることは、国家政党体制の枠組みのなかでは不可能なのです。「断絶なき変革」はありえません。現在のメヒコのあらゆる社会関係を基盤から根底的に変革することが必要なのです。必要なのは革命、新しい革命なのです。この革命は国家政党体制の枠の外でしか達成できません。
(Ⅱ)メヒコにおける新しい政治体制の基礎は民主主義、自由、正義。
ＥＺＬＮ、ならびに大多数が先住民で構成される基礎組織が掲げる諸要求の基盤にあるのは、民主主義、自由、正義の三つです。この内のひとつが抜ければ、どれひとつとして達成できません。どれがいちばん重要かも言えません（「民主主義は後回しにして取り敢えず正義を確立しよう」と、われわれの耳元で囁くのはイデオロギーの罠です）。三要素のどれを強調するか、あるいは三要素の相互の序列関係についてとか、歴史上のさまざまな時期)一九九四年や、現在進行している一九九五年はバタバタと過ぎ去った感じですが)にどの要素が支配的になっているかは言明できるかも知れません。
政府軍がわれわれの部隊に対する包囲網を強化し、司令部のグループがコマンド部隊によって「追跡」されていた一九九四年一月二十日、マスコミ宛てに送った書簡でわれわれが指摘した特定の革命について、これからお話しします。その時、こう言ったはずです。 「メヒコの革命的変革はひとつの意味しかもたない行動によって生み出されると、われわれは考えていない。それは、厳密な意味では、暴力革命か平和革命かという問題ではない。それは、何よりもまず、多様な方法を駆使し、異なる社会形態のもと、多様な段階の責務や参加を実践しながら、社会の諸戦線で展開される闘争によって生み出される革命である。その結果は、特定の社会的提案を掲げ、勝利者然としている政党、組織、あるいは諸組織の同盟が生み出した結果というより、多様な政治的提案の相互突き合わせから解決策を導き出すための民主的空間の基盤である。この問題解決のための民主的空間は、相互に切り離せない歴史的な三つの基本的前提をもつことになる。支配的なものとなる社会的提案を決定するための民主主義、特定の提案を支持するための自由、そしてあらゆる提案が従属すべき正義である」(一九九四年一月二十日)。
一つの文で三つの指示といえば、苦いポソールのように中身の濃い指摘です。副司令官の文体の特徴は、概念の曖昧さと、理解困難で消化不良となる理念です。もし許されるなら、私は、彼がアウトラインだけ示して放置したことを展開してみようと思います。つまり、革命（数多くいる「革命」の前衛や救済者との論争を避けるため強調はしません）に関するすべての概念を内包する三つの指示のことです。
第一の指示は革命的変革、つまりこの革命的変革の特性に関するものです。その特性には、多様な方法、さまざまな戦線、変異に富んだ形式、さまざまなレベルでの責務と参加が含まれています。あらゆる方法にはそれぞれ適用される固有の場があり、闘争はあらゆる戦線で展開すべきであり、どのような形であれ参加することが重要であるということを意味します。つまり、排他主義や前衛主義を退ける集団主義的な概念の問題なのです。革命（小文字であることに注意）の問題は、「特定の組織」、「特定の方法」、「特定の指導者」（大文字であることに注意）の問題を通り越し、この革命が必要かつ可能と考えるすべての人々を糾合する問題であり、その実現には全員が重要な意味をもつのです。
第二の指示はこの革命の目的と結果に関するものです。権力の奪取や新しい社会システムの樹立（平和的、暴力的を問わず）ではなく、あれこれのシステムに先行するものの問題です。新しい世界の入り口、すなわち対等の権利と義務のもとで多様な政治勢力が社会の多数派の支持を獲得するための「論争」の場を構築できるかという問題です。これでサパティスタは「武装した改良主義」という仮説は裏付けられるますか？われわれの考えは違います。われわれが指摘したいのは、大多数の支持のない「強制された」革命は自らを裏切ってしまうということです。それを説明するには紙幅が必要であり、これが書簡であることも承知していますので、いくつか指摘を行なうだけで、別の機会に展開するか、論争や議論（サパティスタの「御自慢」の方法のようです）を呼び掛けたいと思います。
第三の指示は革命の特性というより、結果に関するものです。結果として創出された空間、新しい政治的関係は民主主義、自由、正義の三条件のもとで実現されるべきです。
要するに、われわれは正統的な革命を提起しているのではありません。革命を可能にする革命というきわめて難しいものを提起しているのです。
(Ⅲ)広範な反対派戦線？
国家政党体制に反対する諸勢力が分裂しているため、国家政党体制は攻撃に抵抗できるとともに、反対勢力の一部を取り込みながら間接支配できるのです。国家政党体制がいちばん心配するのは、反対派諸勢力の急進化ではありません。彼らが偶発的にでも団結しないかということです。反体制の諸政治勢力に分裂しているから、国家政党体制は反対派勢力を構成している政治的「小島」と交渉し、「戦い」ながら、征服できるのです。戦争の掟、つまり「勢力の経済学」を適用すればよいのです。小さな核に分散している敵を相互に隔離した状況に置き、個別の核に力を集中して打撃を与えればよいのです。これらの反対派の核は、単一の敵というより、複数の敵に対抗している存在として自己認識しているのです。個々の核は、お互いの共通性（国家政党体制という対立する敵）ではなく、差異（政治的提案）をことさら強調します。われわれが言っているのは、操り人形の反対派ではなく、誠実な反対派であることは明白です。反対勢力が分散しているため、個々の「小島」を「占領し」、打破（または消滅）するため、体制側は勢力を集中できるのです。
この「小島」が団結することは、国家政党体制にとって深刻な問題となるかもしれません。しかし、体制崩壊を目撃するには、それ(団結)だけでは不十分です。メヒコ人民という「第三の要素」の存在と介入が必要となるでしょう。そう、人民の定義やその神聖化を回避するため、小文字の人民としておきます。この「第三の要素」は社会階級として明確の特性を有するのでしょうか？当然です。しかし、前面に「飛び出す」特性ではありません。支配的な特性は、人民が政治、つまり政治組織に対して懐疑心や不信感をもっていることです。こんなふうに言うのは、「メヒコ人民」と言う場合は、われわれは解決策ではなく問題を指摘していることを伝えたいからです。そう、問題とともに理論的枠組みや御用組合主義的な統制を乗り越える執念によって、見えてくる現実も指摘しているのです。 「小島」が団結するには数多くの障害があります。そのひとつ、唯一ではないがきわめて重要な障害はこの団結の性格をめぐる見解の違いです。搾取された階級、あるいは搾取された階級の諸組織の団結なのか、複数の階級の団結なのか？また、分裂が始まります。 ふたつの戦線を並行して構築できるでしょうか？それともひとつの戦線は別の戦線と対立するのでしょうか？われわれは構築可能であり、対立してはいないと判断します。しかし、いずれにせよ最良の方法は第三の鏡に尋ねることです。質問し、返答する。話し、聞く。つまり、対話です。民族の・・・対話です。
（論文はここで終了。約束は果たしました）
これで終わりです。私の文学のスタイルは「わが民族を代表してロックが語る」という標語で印刷されるにふさわしいと確信しています。私に忠実で誠実だが、人生をガラスと鏡を使った遊戯と見なす傾向が強い私の従者の文学スタイルでは、そうはいきません。
それでは、お元気で。気力をもってください！ガラスはもうそこにありません。後は発見するだけです。
どの道路の何キロメートルかは分からないが、メヒコにいることは確かです。
ラカンドン密林のドン・ドゥリート
メヒコ、一九九五年五月
Ⅱ 来るべき日。
向こう側から眺めるためのガラス
裏側が研磨されると、鏡は鏡ではなくなり、ガラスになる。つまり、鏡はこちらから眺めるためのもので、ガラスは向こうからこちらに何があるかを眺めるためのものである。 鏡は研磨しなければならない。
ガラスとは、打ち壊すためのものであり・・・向こう側へ渡るためのものである。
メヒコ南東部の山中より
反乱副司令官マルコス、
一九九五年二月～五月
追伸：現実と想像のイメージは、鏡のなかに壊すべきガラスを見つけだすだろう。
ドゥリート第Ⅴ部
メヒコ市の早朝。ソカロ広場周辺の通りをドゥリートはぶらついている。カサブランカのハンフリー・ボガートをまねた丈の短いコートと帽子を身につけ、ドゥリートは気づかれないように散歩するつもりである。そんな服装も、きらきら輝くショーウインドーから映しだされる影に寄り添いながら這うような遅い歩みも、ドゥリートには必要ない。影の影、押し黙った歩み、透かし刺繍のある帽子、裾を引きずるコート。ドゥリートは早朝のメヒコ市を歩いている。誰も彼に気づかない。彼の姿が見えないからである。上手く変装しているためか、そうでなくとも五十年代の探偵の服装をしたちっぽけなキホーテの小さな姿は、ゴミの山のなかでは見分けられないだろう。誰かの足や、連邦地区の早朝の気ままな一陣の風に引きずられる紙くずとともに、ドゥリートは歩く。誰もドゥリートを見つめない。その理由は簡単である。この都会では誰も他人を見ようとしないからである。
ドゥリートが私に書いた手紙はこんなふうになっている。
「この都会は病んでいる。孤独と恐怖で病んでいる。この都会は孤独の大きな集合体である。この都会は複数の都市がある。そこに居住する人ごとに別の都市がある。苦悩ではなく（苦悩のない孤独を君は知っているかい？）、潜在能力の集大成となろうとする。それぞれの孤独は、それを取り囲む孤独の数だけ増殖する。それぞれの孤独は、地方の祭りによくある「鏡の館」に入り込むようなものである。それぞれの孤独は、いくつもの孤独を鏡のように跳ね返している別の孤独を映しだす鏡のようなものである」
ドゥリートは見知らぬこの都市にあるものに気づきはじめた。この都市は彼の居る場所ではない。彼の心のなかで、今朝方、気づいたのである。ドゥリートは荷物をまとめた。この早朝の散歩は、数え直し、つまり別れと知りながら愛する人が行なう最後の愛撫のようなものである。やがて人波は減りだし、余所者をびっくりさせるパトカーのサイレンが増えだした。ドゥリートも、赤と青の点滅灯をつけたパトカーが通りを横切るたびに、その場で停止を命ぜられる余所者のひとりである。ドゥリートは玄関の脇に隠れ、ゲリラのように素早くパイプに火を点ける。小さな火が弾け、深く息を吸い込み、紫煙が視線と身体を包み込む。ドゥリートは立ち止まる。辺りに目をやり、見つめる。目の前のショーウインドーには照明が点いたままである。ドゥリートはそこに近づき、大きなガラスを見つめ、その内側に展示されたものを見つめた。いろんな形や大きさの鏡、磁器製やガラス製の人形、カットグラス、オルゴールがある。メヒコ南東部の密林で過ごした長い年月を思い出しながら、ドゥリートは「喋る箱［神託を告げる聖人像の入った箱］はないな」とつぶやいた。
ドゥリートはメヒコ市に別れを告げにきた。誰もが毛嫌いするくせに見捨ててはいないこのメヒコ市に贈り物をあげようと決めていた。ひとつの贈り物。こちらは、メヒコ市の中心街にいるラカンドン密林の甲虫、ドゥリートである。
贈り物とともにドゥリートは別れを告げる。
ドゥリートは華麗に魔術師の仕草をする。すべてが停止し、穏やかな風に頬を撫でられ消えた蝋燭のように光は消える。さらに魔術師の仕草をすると、別の光がスポットライトのようにショーウインドーのオルゴール箱を照らす。リラの柔らかい生地をまとった踊り子は、交錯させた両手を高くあげ、爪先立ちの両足で均衡を保ちながら、不動の姿勢をしている。ドゥリートは踊り子の姿勢を真似しようとしたが、手が多すぎることにすぐ気がついた。今一度魔術師の仕草をすると、タバコの箱ぐらいのピアノが現われた。ドゥリートはピアノの前に座り、蓋のうえにビールビンを置いた。ビンをどこから取り出したのか分からないが、まだ半分残っているので、直前に取り出したことは間違いない。ドゥリートは指を鳴らし、映画でバーのピアニストがする指の運動を真似した。ドゥリートは踊り子を振返り、頭を傾けた。踊り子は動きだし、深々とお辞儀をした。ドゥリートは曲名不明の歌詞を奏でながら、脚をリズムを取り、目を閉じたまま、バランスを取りだした。最初の調べが始まった。ドゥリートは四本の手でピアノを弾いた。ガラスの向こう側では、踊り子が回転しながら、右脚をゆっくり上にあげだした。ドゥリートは前屈みになり鍵盤を激しく叩いた。踊り子はオルゴールという牢獄で可能な最良のステップを踏む。都市は消えた。何もない。ピアノの前のドゥリートとオルゴールの踊り子だけがいる。ドゥリートはピアノを弾き、踊り子が踊る。予想外の贈り物、心地よい驚き、良い知らせを受け取った時のように、都市はびっくりし頬を紅潮させる。壊れず永続する鏡、痛みを感じず、軽減し、洗い流してくれる別れという最良の贈り物をドゥリートは都市に贈った。この光景はほんの一瞬しか続かない。この都市に住み着いている都会が新しい形態を獲得するにつれて、最後の調べは消えていく。踊り子は心地悪い不動の姿勢に戻り、ドゥリートはギャバジン・コートの衿をたて、ショーウインドーに向かってゆっくりとお辞儀をする。
「君はいつもガラスの向こうにいるの？」とドゥリートは踊り子に尋ね、そして次のように自問した。「君は私がいるこちら側のむこう側にいつまでもいるの？私は君のいる向こう側のこちら側にいつまでもいるの？ご機嫌よう。また会おう。愛しいマルコンテンタよ。贈り物と同じように、幸せは閃光のように一瞬しか続かないが、価値あるものだ」
ドゥリートは通りを横断し、日影の側に移り、歩きつづける。角を曲がる直前にショーウインドーを振返る。ガラスには星形の穴が開いている。警報機が虚しく鳴り響く。踊り子のついたオルゴールはショーウインドーにはもうなかった・・・。
「この都会は病んでいる。病気が危機的な状況になれば、治療者が現われるだろう。何百万もに増殖し勢力を蓄えたこの集合的な孤独は、やがて自分を見いだし、自分が不能である理由を見つけるだろう。その時になって初めて、この都会は身にまとう灰色を脱ぎ捨て、地方に満ち溢れている多彩色のテープで自分を飾るだろう。
この都会は鏡のなかの残酷なゲームを行なっている。的となるガラスがないなら、鏡のなかのゲームは無意味で不毛である。それをはっきり理解し、誰かは知らないが、誰かが言ったように、戦い、そして幸せになれば・・・十分だ。
これから飛んで帰る。タバコを用意して、眠れなくなるから、覚悟をしておけ。サンチョ、おまえに話したいことがいっぱいある」
ここで、ドゥリートの手紙は終わっている。
夜が明けている。陽が昇るとともに流れるピアノの調べに合わせて、ドゥリートは去っていく。東の空から昇る太陽は、朝の透明なガラスを打ち砕く石のようである。
もう一度、それでは。ご機嫌よう、そして中空が虚ろな鏡に敬意も表しておこう。
副司令官はピアノを離れ、多くの鏡に惑わされながら、出口・・・入口を探している。
出典：La Jornada,1995/6/9 ～11
|